2009年06月15日
∟ 恋愛より、一杯のカレーライス


3.恋愛より、一杯のカレーライス
編 : その頃の親子関係は、どんな感じでしたか。
中西太先輩 : 戦後の貧しい時代だったので、行商していた母は、いつも儲かったとか儲からなかったとかの話ばかりでした。今の10円や500円数えるような感じで、今思うとどうやって高校までいけたのか不思議です。
また当時は、親はとにかく子供に何か食べさせなければ飢え死にさせてしまうという時代だったので、お金持ちであろうがなかろうが、食べ物を必死で確保してくれてましたよ。学校帰りに1杯35円のラーメンをよく食べていましたが、そのお金をどこから捻出していたのか、不思議でしたよね・・・(笑)
編 : 恋愛はしていましたか。
中西太先輩 : そんな暇は無いです。(笑) 強くなって甲子園に出場するようになってから、他県に遠征に行ったりすると、女学生が見学に来たりしていましたので、今考えるとモテタのかもしれませんが、野球漬けの日々でしたので、デートしている時間なんて当然無かったですし、恋愛なんてあり得なかったですね。それよりも、遠征先で食べさせてもらったカレーライス1杯のほうが、よっぽど嬉しかったです。
(少し間があって、奥様を呼びながら・・・)
こういった奥さんをもらえるような男にならなければ駄目ですよ。(笑)
4.4打数4安打2本塁打で、プロ野球選手に!
編 : プロ野球選手になったお話を教えてください。
中西太先輩 : 当時、三原監督が西鉄ライオンズの監督として1年目の頃、私は高校3年生で、4番打者として甲子園に出場し、「怪童」という過分なあだ名を頂戴していました。(笑) 私は、高校の顧問の先生が早稲田大学のOBで、その関係か指導者も早稲田関係者が多かったので、自然と早稲田大学を志していましたが、母が女手一つで8人兄弟を育てていたので、早く卒業して働き手として恩返しをしたいという気持ちで、気持ちが揺れていました。
編 : 今では考えられない時代だったんですね。
中西太先輩 : そんな時、人づてに三原監督が、「早慶戦を見たいのであれば、東京へ連れていってやる」と申し入れがあるということを聞いて、東京に遊びにいったんです。その後、実際に私がプレーしている姿を見たいということになり、三原監督が見に来た試合で、4打数4安打2本塁打を打って、西鉄ライオンズ入りが決まったんです。
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